あの事件について

2003年11月11日
出張の車の中で、上司と大阪の大学生と高校生が起こした事件についての話となった。

そこでのボクの見解。(あくまでも個人的な見解なので、読まれる方はご了承ください。)

大阪の河内長野で起きたこの事件は、“死”にとりつかれた18歳の大学生と恋人である16歳の女子高生が自分たちの家族を殺害しようとし、大学生の母親が死亡。父親、弟が大怪我を負った痛ましい事件である。

新聞では「不可解な事件」として取り扱われ、ふたりが何を考えているか理解できないという論調が主流である。

実はボクの考えは少し違う。
まず大学生について。
18歳といえば、本人が自覚しようがしまいが、純情な心を持っていると30歳を過ぎたボクはそう思う。

ボクもその年齢の時は、今思うと恥ずかしくなるくらい純情だった。
当時、ひとつ年上の女性に恋をし、運良くお付き合いすることになった。
彼女とボクはとても考え方というか感情がよく似ていて、どんどんとお互いを好きになっていった。
彼女が笑うとうれしくなり、声を聞くだけで幸せな気持ちになり、一緒にいるだけで希望に満ちあふれた。
こんなにも人を好きになることができるのか。
ボクは毎日毎日どきどきし、幸せな日々を過ごした。
前振りが長くなったが、そんな幸せな日々の中、ボクはこんなことを考えたりした。

「もし、親と彼女のどちらかを選べと言われれば、間違いなく彼女を選ぶよな。」と。

このような想像は実は誰もがするもので、たとえば、「明日、地球が滅亡するとして、そのときあなたは誰と一緒にいるか?」なんて考えてみたりする。

この大学生の行動の根本的なところは、このような感情ではないのだろうかと想像する。

幸いボクの場合、彼女から「私と生きるか、親を殺すかどっちをとる?」というような究極的選択をするような人ではなかった。
でも、とてもとても愛する人が、死にとりつかれた女子高生だったら・・・とついつい考えてしまう。

では、何故、女子高生は死に取り憑かれたのだろう。

若いときは、誰もが一度は「死」について想像する。
もちろんそれはたわいないのないもので、
「もし、自分が死んだら誰が悲しんでくれるのだろうか?」とか「死ぬ瞬間って、どんな感じだろう?」、「死後の世界はどうなってるのか?」だったりする。

普通だったらその程度で済む。
けれど、突き詰めて考えて考えて考えてしまうと、いつの間にか“死”の甘美の香りに魅入られてしまうのではないのだろうか?
「死んでしまえば、今の苦しみから逃れられる。」、「今の自分は、この世界にいるのがおかしい。」、「あの世はきっとすばらしい世界だ。」などなど。 

彼女もなんとなく、“死”について考すぎて、引き返せなくなったんじゃなかろうか。

何を分かったようなこと言ってんだ!!と気分の害された人がいたらスミマセン。

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